若松軍艦防波堤

僕が住んでます北九州市、そして勤務地でもある若松区

軍艦防波堤と呼ばれている場所があります。

第二次世界大戦後に、この場所に復興の一環として

3隻の駆逐艦が防波堤として沈められました。

1隻は上部をコンクリートで固められ見ることが出来ますが

残りの2隻は完全に埋め立て地の地中に埋没しその姿は

見ることは出来ません。

(沢山の画像をお借りしています)

航空写真です。現在は柳のみその姿を確認する事が出来ます。

駆逐艦「柳」の船首部分

薄く鉄の線が残る駆逐艦「柳」の艦尾部分

新しい紹介の看板が設置されました。(10年は経ちますのでもう古くなったかな)

小さいですが埋設当時の画像

会社の年配の方が、夏はよく泳ぎに行っていたと話してました。

 

埋設されている3隻の駆逐艦の経歴を記載します。

駆逐艦「柳」

1917年に竣工し第一次世界大戦に参加しています。

「柳」は当時同盟関係にあった英国などの要請で主に地中海での

対潜水艦(ドイツUボート)作戦に従事します。

全長85m  幅7.6m 排水量835トンのこの小さな船体で

インド洋を横断して地中海で作戦行動を行ったなんて凄すぎます。

「柳」が属した艦隊はマルタ島近辺で対潜作戦に参加して撃沈された輸送船等の

乗組員を多数救助するなどして当時の英国国王から勲章を授与されています。

当時、英国では雷撃を受けた艦に横付けしての救助は狙い撃ちの恐れが有り

禁止されていたのですが僚艦の「榊」「松」は自らの危険も顧みず

損傷艦に接舷して多くの英国乗務員を救助しました。

救助した人を満載にした「榊」

この救助に対して当時の海軍大臣チャーチルより感謝の電文と

後に英国王ジョージ5世から勲章の授与が有ったそうです。

その後の作戦で「榊」も攻撃受けて59名が戦死。艦隊の病死者14名と

併せてマルタ島に眠っています。

「柳」は第二次大戦では日本国内で訓練用の駆逐艦として使用。

最後の安住の地が北九州市(当時の若松市)となりました。

 

「柳」の隣に眠る駆逐艦「凉月」は ※涼ではなく凉を使います。

日本海軍が開発した最新の防空駆逐艦でした。

海戦が砲雷撃戦から航空機による戦いに移行する中で装備した10cm高角砲で

敵の航空機を撃墜する事に特化した艦船でした。

最後の作戦で大損傷を負い佐世保に帰還した「凉月」

艦橋前部が大きく損傷した「凉月」

戦後の「凉月」手前を歩くのは進駐して来たアメリカ兵

確認に来たのか、それとも記念品を探しに来たのか(当時は普通だったみたいです)

 

「凉月」は昭和20年4月に戦艦「大和」を中心にした沖縄特攻作戦「天一号作戦」に

従事して沖縄へ向かいます。

編成は戦艦「大和」軽巡洋艦「矢矧」駆逐艦「響」「潮」「磯風」「浜風」「雪風

「初霜」「霞」「朝霜」「冬月」「凉月」のわずか12隻でした。

出航からアメリカに察知されていた艦隊は4月7日鹿児島坊ノ岬沖で艦載機の

波状攻撃を受け戦艦「大和」以下6隻の艦艇が撃沈され多くの乗務員が犠牲となった。

攻撃を回避する「冬月」と奥は「大和」

大損傷を負った「凉月」

艦橋右舷に大損傷を負った「凉月」は浸水により前進が出来ず、平山艦長は

沖縄への特攻を主張する一部の士官を押さえて、後進で佐世保を目指す

判断を下した。コンパスを損傷し方角が分からぬ「凉月」は天測と

九州出身の乗組員が観測を行いながら4月8日14時30分 佐世保軍港へ帰還。

前部弾薬庫を内部から防水処置を行い、沈没を回避した3名の乗組員が

酸欠死した状態で発見され戦友達の涙を誘ったそうです。

 

同じく作戦に参加した「冬月」は※「凉月」と同型艦

「冬月」もアメリカ艦載機の攻撃を受けるも比較的損害は少なかったが

佐世保に帰還してから負傷者20名が戦死し30名以上の乗務員が戦死した。

行動不能になった「霞」に接舷し乗務員を救助。

沈没した「矢矧」の乗組員を救助し佐世保に帰還した。

沈没を免れた駆逐艦6隻では命令である沖縄特攻についてどうするのか

意見の相違があったそうだが最後は漂流者を救助して佐世保に向かう事で意見が一致。

帰還後、その行動について司令部からは意見は無かった。

帰還後「冬月」は門司港で防空任務に就き侵入したB29を撃墜するなどの戦果を挙げ

終戦門司港で迎える事となった。

防波堤が完成し夫婦でそこを訪れた、「矢矧」乗組員の方は「乗艦が沈没しもう

助からないなと覚悟を決めた時に、冬月が救助に現れた。これで国に帰れると

思い涙が止まらなかった」との話を聞いたことが有ります。

油まみれの海に漂流するなかで目に映った「冬月」は本当に頼もしい存在だった

でしょう。

毎年、4月7日に近い日曜日に、若松区古河鉱業若松ビルで「軍艦防波堤を語る会」

が開かれています。以前は「凉月」乗組員だった方やご家族も参加されて貴重な

お話をされていました。

 

1948年に復興にむけた沈設作業が行われ、激動の時代を生きた駆逐艦3隻は

北九州市若松区で静かに眠っています。

 

おしまい。