小倉城のお話①

前回小倉城の夜景を載せましたが、ブロ友さんに小笠原家との縁の深い長野の

方がお二人もおられて、ちょっとノリで小倉城のお話をしてみます。

 

僕が住んでる門司は筑前国にあたり、昔で言うと細川領、、その後の小笠原領に

なります。北九州市は中央で豊前国筑前国に分かれていて筑前国

黒田領になります。黒田長政細川忠興は非常に犬猿の仲で、江戸時代初期には

一触即発の状況で、幕府が仲裁をしたとの話も有ります。

黒田長政は幕府の「一国一城令」が出る前は豊前国との境界に6つの出城を

築城しいつでも細川氏と戦が出来る準備をしていたそうです。

 

小倉城 非常に美しい城です

 

実際の天守の復元図

 

実は現在の天守は復興天守で(復元天守ではない)細川忠興が1602年に築城

したときには上の画像の様な天守であった事が伝わっています。

現在の城郭を整えたのが関ケ原以降の細川忠興ですが、関ケ原の時代の城主は

毛利勝信(森  勝信大坂の陣で名をはせる息子の毛利勝永伏見城攻めに

参陣していたが、関ケ原で西軍が破れ九州各地を黒田如水が席巻していた事も

あって、如水と仲の良かった父の毛利勝信は家康への執り成しを依頼し

息子の毛利勝永と共に土佐の山内家への配流となりました。

 

毛利勝信は土佐で亡くなることになりますが、息子の毛利勝永大坂の陣

豊臣秀頼の呼掛けに応じて土佐を脱出して大坂城に入城します。

大河「真田丸」では岡本健一さんが毛利勝永を演じていました。

実はこの毛利勝永、後世で「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」

評されるほどの戦いを大坂夏の陣で繰り広げます。

その戦いも、その後の小倉城に縁が有るとしか思えない戦いとなります。

 

真田信繁(幸村)が徳川家康を追い詰めたと言う「天王寺口の戦い」では

後藤又兵衛真田信繁勢が壊滅し、大坂城への撤退が決まった時に

殿(しんがり)として戦った毛利勝永は追撃する藤堂高虎の軍勢に

大打撃を与え、さらに細川忠興の軍勢も退け大坂城に撤退しました。

この時、細川忠興小倉城城主で豊前国を治めていましたが、その前の

小倉城城主は毛利勝永の父親、毛利勝信でした。

もし(IF)この時に細川忠興を討ち取ったりしていたら、細川家は弟の

細川忠利にゆだねられる事となり、細川家のその後、肥後移封にも影響が

有ったかもしれません。

 

真田信繁徳川家康の本陣に突入するきっかけともなったのが、毛利勝永

大活躍でした。実はここにも小倉城と縁のある親子が登場します。

小笠原秀政は子の小笠原忠脩・忠真と信州松本から大坂の陣に参陣。

本来であれば、どちらかが領地に残るのが普通でしたが、子の小笠原忠脩

独断で大阪に向かい、徳川家康もそれを許したため、小笠原親子3人が

毛利勝永の正面に相対する事になります。

 

毛利勝永は先ず、最初に攻撃して来た本多忠朝(有名な本多忠勝の息子)を

撃破して忠朝を討ち取り、続いて小笠原忠脩を討ち取ると小笠原秀政・忠真

も撃破して負傷を負わせ(秀政は翌日死亡)ついには浅野・秋田・榊原・安藤・

六郷・千石・諏訪・松下・酒井などの諸将を突破して真田信繁と共に徳川家康

本陣迄迫る戦いを見せました。

もしこの時の戦いで、次男の小笠原忠真まで亡くなっていたらその後の小笠原

小倉藩が成立していなかった可能性も有り、忠真の好物だった糠漬けが小倉名物

では無かったのかもしれませんね。

 

毛利勝永大坂城に戻り、豊臣秀頼の自刃の介錯を行った後に、自害したと

伝わっています。

小倉城に縁のある猛将のお話でした。

治世をちゃんと行って名君と呼ばれた人も、こんな形で歴史に名を遺す

勇将も居ます。もののふの世界は奥が深い。

 

おしまい。