さてグラバー園から下って来ました。
半分はお土産屋なんですけどね、、。
長崎くんちは経験が無いので、これで踊っているのを観たことがありません。
ここで不思議な体験をします。
まだ禁教令の出ている1864~65年に完成。
長崎が開港され外国人が多数いた事も有り幕府は建設を許可したのでしょうが
豊臣秀吉の時代に殉教した二十六聖人の為に建築され二十六聖殉教者堂と命名
されたが、近隣の住民はフランス寺と呼んでいた。
1865年浦上の住民十数人が寺の見学と称して天主堂を訪れた。
祈りを捧げていたプティジャン神父に住民の40~50歳の女性の一人が
近づき「私どもは神父と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き
「聖母様はどこでしょうか」と尋ねて、自分たちがカトリック信者である事
を伝えます。神父がマリア像を指し示すと、浦上の住民は、、。
「本当だ、、聖母様がイエス様を抱いておられる」と感動しました。
彼女たちは「七代後に神父様が来る」と言う先祖からの言い伝えが本当だった
と知ることになったのです。
彼女らは神父が居て、聖母像が本当に有った事からここがカトリック教会であると
確信し、先祖から250年以上隠れて守ってきた教えが本当だった事をを確信しました。
プティジャン神父も存在が確認されていなかった、隠れキリシタンが本当に
存在していることを目の当たりにして大きな感動につつまれます。
神父はローマに「信徒発見」の報をもたらし、教皇は「東洋の奇跡」として
大いに喜んだそうです。
お借りしました大浦天主堂のマリア像。
不思議な事とは、自分はカトリック信者でもキリスト教を崇拝するものでも
無いのですが、天主堂の椅子に座りながら天主堂内の放送でこの話を聞いていたら
悲しくもないのに急に胸が一杯になり、涙がポロポロと流れ、一緒に居た嫁が
「どうしたー!!」と驚いていました。
さて、、何だったのでしょう、、。
心のよりどころを見つけた浦上の住民でしたが、苦難が押し寄せます。
2年後の1867年、、仏式の葬儀を拒否した住民がいた事から
浦上の隠れキリシタンの存在が公になり、長崎奉行所は改宗を迫りますが
果たせず、3300人近くの住人が各所に流されて、迫害拷問を受けて
多くの人が命を落とします。(有名なのは津和野・萩など)
しかし鹿児島だけは配所とされた寺で自由に暮らせたそうです。
これを浦上の四番崩れと言います。(多分浦上の隠れキリシタンにとって
4回目の災難であった事から)
明治となり禁教令は解かれるどころか、日本は神国であると唱えた
尊王攘夷派が行なった廃仏毀釈と同様に、明治政府もキリスト教を受け入れる
事が出来ずに更なる迫害を続ける事になります。
特に萩に流された岩永ツルさんへの拷問は「寒ざらしのツル」として
語り継がれていますが、それだけの拷問にも彼女は改宗することなく
認めることになります。
ようやく故郷、浦上に戻り自分たちの天主堂を30年もかけて建設し、自分たちの
信仰を捨てることなく新たな生活を始めた住人達でしたが、72年後に浦上天主堂の
真上で人類史上2番目となる大量破壊兵器の被害を受けてしまいます。
それでも長崎の人達は立ち上がりました。
福山雅治さんが歌う「クスノキ」の様に、被爆したクスノキは焼け焦げた幹から
新芽を出し葉の茂る元の大樹に復活して今も住民を見守っています。
浦上天主堂の長崎の鐘は土中から掘り起こされ、天主堂も立て替えられました。
まさに長崎の人達はまた立ち上がったのです。
みなさん更に新しく成長進化している長崎市を是非訪れて下さいね。
おしまい。