さて小倉城のお話の続きです。
小倉城の細川家と縁が深いと言えば、、。
ジャーン、、。この方!!
こちらの画像の方が有名かな。
剣豪 宮本武蔵。
「二天一流」二刀流の剣豪です。多分、日本で一番有名な武芸者。
年代がはっきりしていませんが、細川藩が豊前を領地としていた
時期に、小倉領舟島(巌流島)※現在は山口県 で岩流(巌流)を使う武芸者と
決闘を行った。
これが有名な佐々木小次郎との巌流島の決闘と言われていて、諸説あって
定説のように遅れた武蔵が佐々木小次郎を木刀で倒した。とする説とか
武蔵が弟子を引き連れて舟島へ渡り、小次郎を弟子と一緒にボコボコに
したとする説などが有ります。
但し、細川家が熊本に移った後も、武蔵は客人として禄を貰っているので
そんな卑怯な事をする人間を細川忠興が気に入る筈もないので、定説が
正しいのでしょう。
武蔵には宮本伊織と言う養子が居て、この伊織が小笠原家に仕官して
小笠原家が小倉に配置換えになった後には何と家老にまでなります。
小倉と門司の境にある手向山(たむけやま)に碑を建てて、吉岡一門や
巌流島の決闘の話を刻んだのでそれらがほぼ史実として伝わる事になりました。
武蔵はこの後、肥後に移り有名な「五輪の書」を書きあげます。
(お借りしました)小倉碑文
あるかもしれませんが、宝蔵院槍術は宮本武蔵とも関係が有り
2代目の興福寺の僧、胤舜(いんしゅん)が宮本武蔵と手合わせした
との言い伝えが残ります。
槍隊を率いて戦功を挙げて加増された。
高田家は小倉藩の槍指南役として仕えたので小倉には
全国から槍自慢の剣豪が集まったと言われている。
時は流れて幕末、、。
1866年老中であった唐津藩 小笠原長行は第二次長州征伐の小倉口総督として
長州藩と戦いを開始。田ノ浦、大里と続けて敗戦。門司と小倉の境にある
鳥越峠の戦いでは熊本藩の奮戦も有り勝利するが、その後の戦いでは
他藩の援軍を何故か拒否した挙句、将軍家茂の崩御により小倉を見捨てて
戦線離脱、、味方を置いて船で江戸へ遁走すると言う、、徳川慶喜ばりの
退却する事態となり、小倉城は長州藩に占領される事になりました。
※唐津小笠原家と小倉小笠原家は親戚で小倉側が主家にあたる。
この方、凄い人なのか逃げ上手なのかよく分からない、、。
鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍との戦いに大反対したと思いきや
負けて徳川慶喜が江戸にもどると、新政府軍を江戸で迎え撃つ進言を
して徳川慶喜に反対されると奥州に遁走。
一方、唐津藩は朝敵とされることを嫌い、小笠原長行との養子関係を断った。
奥州に落ちた後は会津で新政府軍と戦い、敗れると仙台から五稜郭に移動。
また新政府軍と戦い敗れると再び遁走。
アメリカ汽船に乗船して明治5年まで行方不明。
明治5年に新政府に自首してわずか1ケ月程度で放免され隠居。
でもやっぱり小笠原長行は生きのびるんですよね。
話が大きくそれましたがその後、田川香春方面に移動した
小倉小笠原藩兵は家老 島村志津摩の指揮で長州藩と激戦を繰り広げ
1867年にようやく和解。
燃え落ちた小倉城は、1959年復興天守として再び建設されました。
実は1945年8月9日 長崎に原子爆弾が投下されたこの日、、。
第一目標は、この小倉城の上空だったのです。
おしまい。
※実は1837年に失火で小倉城天守と本丸御殿は焼失しています。
天守は再建されていないそうなので小倉戦争時点では
天守は使われていなかった様です。